洋一はパリ・ジェンヌに片想いだ。
「セタンクレイヨン、セタンクレイヨン(これは鉛筆です、これは鉛筆です)」
覚えたてのフランス語も軽やかに、洋一は口説き文句を練習中さ。
「おお、アントワネット、君はなんて美しいんだ!」
四畳半一間のアパートで朝の五時から絶叫する洋一。隣の山田さんはえらい迷惑だ。
「アントワネット」とは、洋一が自分勝手につけた名前だ。一ヶ月前コンビニで見かけたフランス人に一目惚れしてしまったのだ。
本来の洋一なら、このときすかさず「やあ、久しぶり!」と晴れやかな顔(のつもり、実際は豚が太鼓の音にびっくりしたときのような顔)で大根芝居をかますのだが、いまどき珍しく西洋人を見るとあがってしまう質だったし、また、このフランス人が――なぜフランス人であるとわかったかというと、一緒にいた友人の桜谷君のお母さんがフランス人だったので、桜谷君は幼少のころからフランス人独特の体臭(特にわきの匂い)に敏感で、その人がフランス人かどうか一発で喝破できるという、あまり使う機会のない特技をもっていたからである(久しぶりにフランス人を発見したので、このとき桜谷君は大はしゃぎで「あれフランス人。あれめっちゃフランス人」とわめきたてていた)――このフランス人が、洋一が秘かにつけている「ヨウイチ美人女性ランキング(芸能人を除く版)」の一位をこの四年間ずっと独占し続けてきた高校三年のときの同級生高千穂沙也加さん(総合得点1049ヨウイチ)をはるかに引き離す高得点(3486ヨウイチ)で洋一の心をわしづかみにしてしまったからにほかならない。
結局、そのとき洋一は半勃起状態で失神寸前になり、フランス女に声をかけることができなかった。――その後一ヶ月、洋一は暇を見つけてはコンビニに通った、だが、いまだに憧れの人には遭遇していない。
「今日こそは!」
洋一は雄叫びをあげた。そのとき、隣の山田さんは、雄叫びに驚愕して、入れたばかりのお茶を股間にこぼした。こんなふうに股間が熱くなってもちっとも嬉しくない。単身赴任の五十歳、すっかり頭のはげあがった山田さんは思った。
洋一は張り切ってコンビニに出かけた。今日こそは出会える。大好きなあの人に逢える。そんな予感がする。顔の部品のひとつひとつが微妙に正位置からずれている洋一でも、春うららかなこの朝に、今日は何かが違う、と運命的なものを感じずにはいられなかった。この一ヶ月毎日そう感じていたのだが。――
洋一はコンビニの店内に入った。
「ボンジュ〜ル、マドモアゼル・アントワネット。ボンジュ〜ル、マドモアゼル・アントワネット」
と洋一は何度も口に出す。呼びかけの言葉を練習しているのだ。かなり大きな声でつぶやいているため、コンビニの店員たちには「ボンジュールさん」とあだ名をつけられてしまった。そんなこともつゆ知らずに、洋一の瞳は真剣そのものだ。
洋一は「アントワネット」という名前を自分が勝手につけたということも忘れて、本当の名前であると信じ切っている。そう声をかけて、彼女が変に思うのでは? などと想像すらできないくらい自分の世界に入り込んでしまっている。しかも、洋一は、この呼びかけのあと、どう会話を続けるか、まるで考えていない。
洋一のフランス語力では土台無理な話だ。洋一の頭にはフランス語は難しすぎた。
知っているフランス語を組み合わせれば、なんとかなるだろう、と洋一は安易に考えている。とりあえず、最後は「ジュテ〜ム」で決めようというかなりいい加減な計画だ。
この一ヶ月で洋一が苦心惨憺の末習得したフランス語は次の九つである(桜谷君のお母さんに特訓を受けたのだが、最後に匙を投げられた)。
1 ボンジュール(こんにちは)
2 マドモアゼル(お嬢さん)
3 ボン(良い)
4 メルシー(ありがとう)
5 トレビヤ〜ン(素晴らしい)
6 ジュテ〜ム(君が好きだ)
7 セタンクレイヨン(これは鉛筆です)
8 セタンブリケ(これはライターです)
9 アッチョンブリケ(あっちょんぶりけ)
最後のはなにか勘違いしているらしい。
とにかく、これら九つのフランス語を駆使して、洋一はパリ・ジェンヌを我がものにしようとしているのだ。なんと無謀な冒険であろう。
洋一は興奮してきた。眼は血走り、口から唾液をほとばしらせ、咆哮した。
「ボンジュッルッ、マドモアッゼルッ、ボンジュッルッ、マドモアッゼルッ・アンットワネーーーットーーーッ!」
唖然とする店員と客。店員はおつりを落とし、客のひとりはカゴに入れようとした瓶入り牛乳を床に落とした。チャリーン。グワッシャーン。床に白い液体がとくとくと流れ出す。
その後数秒、誰も動かない。誰もしゃべらない。BGMも鳴りやみ、店内は奇妙な静寂に包まれた。――
ブーンという自動ドアの開く音。そこへいまどき珍しいボディ・コンシャスな出で立ちの女性が。――しかも、金色。おそろしくクレイジーだ。これがあの「アントワネット」か! ブロンドの髪をなびかせ、豊満な胸を強調しながら、艶めかしい腰をくねらせて、のっしのっしと歩く異国のセクシー・ダイナマイト。ハスキー・ボイスで口ずさむ。
「♪オ〜 シャンゼリ〜ゼ〜 オ シャンゼリ〜ゼ〜」
洋一の耳には天使のさえずりに聞こえたのであろう。さっきの咆哮で全身が虚脱しきっていた洋一の体に精気が蘇った。洋一はくわっと目を見開いた。
今だ、洋一! 今こそ、修行したフランス語の成果を試すときだ! がんばれ、洋一。ファイトだ、ボンジュールさん!
洋一は、お惣菜コーナーで血気盛んに漬物を物色しているフランス女にワイルドな歩き方で近づいた。
「ボ、ボ、ボ、ボボ……」
洋一は緊張した。付き合っている女にはじめてフェラチオをお願いするときのような緊張感だ。
「フェ、フェ……」
違うぞ、洋一。落ち着け! 冷静になるんだ!
洋一は深呼吸し、気分を落ち着かせた。そして、練習に練習を重ねた例のセリフを吐き出した。
「ボボボボボボボボボンジュール、マドモアゼル・アントワネッ〜ト〜」
洋一のおかしなフランス語が通じたのであろうか。くるりと振り向く金髪女。
豊満な胸が揺れる。吸いつけられる洋一。ドクンと半勃起。その瞬間を見計らったかのように、アントワネットが手にもったキムチを洋一の前に突き出した。
「ケスクセ?(これは何ですか)」
アントワネットは真剣な表情だ。よほど興味をひかれたらしい。
洋一は困った。困り果てた。「ケスクセ?」がどういう意味かわからないのだ。
洋一は試行錯誤した。アントワネットはキムチを手にもって「ケスクセ」と言っている。「ケスクセ」とはフランス語でキムチのことなのか。キムチをおれの目の前に突き出して「キムチ」と言う女。――しかし、そんなことを言ってどうするのだ。わかり切ったことだ。ん? そういえば、語尾が上がっていたな。疑問文だ。「キムチ?」と聞いたのだ。
洋一はすべて了解したという笑みを浮かべて答えた。
「ウイ、ケスクセ」(「はい、キムチです」のつもり」)
「……」
洋一はアントワネットが怪訝な表情をしているのを見てとって、間違ったことを言ったと気づいた。「ケスクセ」はキムチのことではないのだ!。では、なんだ。この女は何と間違えているのだ。ユッケ? スブタ? ええい。わからん。
「ノン、ケスクセ」(「いいえ、キムチではありません」のつもり)
「……」
洋一はあせった。目の端がひくひくと痙攣した。なんとかせねば。洋一の混乱する頭に浮かんだのは、「気まずくなったときは冗談を」と「女の子を口説くときにはまず誉めろ」という鉄則だった。洋一はおのれの乏しいフランス語力と身体を使って、このふたつの鉄則を表現しようとした。
「トレビヤ〜ン(素晴らしい)」
首をかしげ、両手を顔の両横で開いて、笑顔を振りまく洋一。
しかし、雰囲気がまったくと言っていいほどなごまない。洋一はあせりまくった。そして、次の作戦に出た。アントワネットのはち切れんばかりの胸を力強く指差して、「ボン、ボン(良し、良し)」
空気はさらにおかしくなった。アントワネットは明らかに怒り顔だ。洋一はもうわけがわからず、踊りながら、フランス語を連発した。
「ボン、ボン、トレビヤ〜ン。ボン、ボン、ボボンボン」
「……」
「セタンークレイヨン。トレビヤ〜ン。セターンブリケ。ボン、ボン!(これは鉛筆です。素晴らしいね。これはライターです。良いね、良いね!)」
「……」
「セターンブリケでアッチョンブリケ」
「……」
「メルシー(ありがとう)」
数秒間沈黙が流れた。洋一はまだ踊りを続けている。と、そのとき、
「オマエハ アホカ」
洋一の踊りが止まった。ちょうど雛鳥が親鳥のあとを追って、生まれてはじめて飛び立つときの不安感みたいなものをバレエの要素を取り入れながら表現しようとしている瞬間のことであった。
「オ・マ・エ・ハ・ア・ホ・カ」
再度アントワネットが言った。耳を疑う洋一。もしかして、日本語? 日本語しゃべれるの? 洋一はおそるおそる日本語を口にしてみた。
「こんにちは」
アントワネットはにやりと不敵な笑みを浮かべて言った。
「シネ!」
そういい残して、アントワネットはキムチを手にしたまま、出口のほうへ歩いていった。お金も払わずに。
取り残された洋一は唖然とするばかりだ。
「セタン……ブリケで……アッチョン……ブリケ……ボン!」
洋一は低くつぶやいた。この状況をどう理解していいかわからず、放心状態だ。
洋一はからかわれていたのだ。日本人にフランス語で話しかけたら、きっと動揺するに違いない。そんな策謀がアントワネットの心のなかにあったのだ。アントワネットの高笑いが聞こえてくるようではないか。
洋一は意気消沈して帰ろうとした。そこへ、股間にお茶をこぼした山田さんがコンビニに入ってきた。山田さんはパンツを買いに来たのだ。股間にお茶をこぼした上に、替えのパンツもない。山田さんは禿げてはいても潔癖性なので、洗濯していないパンツをはくことは我慢ならないのだ。今現在はノーパンでジャージをはいている。
山田さんはうろうろとパンツを探している。そこへ洋一が通りかかる。その瞬間、山田さんは床にこぼれた牛乳に足をとられてすべった。ちょうど横にいた洋一にもたれかかる山田さん。洋一は山田さんをしっかりと抱きかかえ、言葉をかけた。
「大丈夫ですか」
その声は、いつになく優しい、まろやかな表情を帯びていた。洋一は意気消沈すると、声からふだんの荒々しさがとれ、とてもスウィートになるのだった。
山田さんは感動した。単身赴任でひとり寂しく暮らしはじめて二年目。こんなに優しい声をかけてくれた人はいない。顔を赤らめる山田さん。
「ど、どうもすいません……」
声をうわずらせながらそう答えたものの、鼓動は激しく脈打っている。もしかして、これが恋? この切ない胸の痛みが恋なの? でも、相手は男の人なのに……。
去っていく洋一を見つめながら、山田さんは、生まれてはじめての感情に戸惑うばかりであった。
| SEO | [PR] 母の日 再就職支援 訳あり 涼しい | 誕生日プレゼント無料レンタルサーバー プロフ SEO | |